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演奏:CD制作 木下牧子作曲モノオペラ「暁の星」

※ 木下牧子作曲モノオペラ「暁の星」初演2018年時の広告写真です。

私はモノオペラという存在を知ってからは、自らの国の言語でリアルタイムに情感を歌うことのできる日本産のモノオペラを待望してきました。その中で、この度、モノオペラ『暁の星』(作曲:木下牧子 テキスト:夏目漱石「夢十夜」より)を、後世の声楽家知っていただけるCDという形にできることをとても喜んでおり、収録の日に向かって、緊張と絶えず体調管理の不安に押しつぶされそうになりながら練習を重ねております。

日本において、モノオペラというものは、声楽家のみならず作曲家をはじめ音楽家たちに馴染みが薄いのではないかと私は思います。私も、新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会(1983年)で、シェーンベルク作曲『期待(Erwartung)』を小澤征爾氏の指揮で演奏する機会をいただいた時に、初めて、モノオペラというものを体感することができました。その時のオーケストラの繊細な音響に感性が触発され、導かれるように表現させられていくという演奏感覚を初めて体感しました。身体を媒体として作品を表現するのが演奏家なのかな…と思ったのも、この時でした。

1995年に、モノオペラ『火の遺言』(作曲:一柳慧 詩:大岡信)を朝日浜離宮ホールの当時の館長さんの音頭で一柳氏と大岡氏と歌い手の私とで協議して内容を決めて創作し、全国6か所で演奏披露いたしました。第一部は詩も作曲も順調にできあがり練習を積むことができ、演出も入れることが出来たのですが、第二部の楽譜が揃ったのは演奏会当日でした。本番当日までに作曲が完結しない、楽譜が演奏者の手元に来ない、という恐怖は言葉に表せるものではありませんでした。

本物の十二単を提供下さった御方は最終公演の水戸芸術館で聴いてくださり、終演後、「第二部は表情を見ていました。よく表現されていました。」「暗譜はできませんでしたか?」と仰いました。私は自分では答えず、隣に座っている作曲家を見たところ、「あれは詩が遅れたのです。」とお答えになりました。曲を生み出すことは大変であると理解できますが…。

第一部は『建礼門院』をモデルとした女性の壮絶な生き様が表現され、日本の芸術文化の象徴として『十二単の衣擦れの音』を披露することを決め、十二単の装束を纏い、舞いも挿入されました。第一部の音楽はオンドマルトノのすさまじい音響から始まり、それと静寂とが織りなす緊張感が支配する中で戦乱の世に翻弄される女性の歴史の一端が表現されるものでした。第二部は現代社会となり、ニュースを読むアナウンサーから始まります。騒がしい世の中にあっても母親から娘へ、またその娘へと継がれていく、変わることの無い情感が遺言のように表現される、というものでした。当日出来上がった第二部の楽譜は作曲者からいただいたそのままを譜面台にのせ、ピアノ伴奏で歌い、演奏者は顔の表情のみで表現するという形でした。

2018年に木下牧子氏に歌曲を委嘱して出来上がった作品『暁の星』は初演時、演奏していくうちに、「これはモノオペラだ」と認識しましたので、改訂版『暁の星』を、木下牧子氏の了承を得て、モノオペラ『暁の星』と定めることにしました。

下牧子さんには、CD収録のためのリハーサル立合いをお願いした際、度々『豊田さんですから!』と仰り、どんどんと歌の演奏表現が自然に更にドラマチックになるよう、ピアノ部分を充実させるアドバイスを詳細にくださいます。ピアニストの仲村渠氏も果敢にそれに応えておられ、それを聞いていると、やはり木下牧子さんがピアニストであることを感じ、ピアノとの息が自然にピッタリ合うように導いてくださり、それが演奏表現に効果をもたらしていることに気づきました。作品を創造なさった作曲家が立ち合って一緒に表現を極めていくという、貴重な体験の機会が与えられていることに感謝しています。

今回CD収録する『暁の星』は、”100年待っていて!”と、死んだ女に言われたとおりに土に埋めて、その傍で待つおとこ・・・を描いたモノオペラです。

作品の初見時は、何と激しい!、と感じました。そして歌ううちに、繊細・・・、壮大・・・、と感じて来て、最終的には、時間空間の制限が無い世界・・・という感覚で歌っていきました。初演の2018年には、この作品の大きさ深さを自分の感性で満たすことができませんでした。今では、歌うと、瞬間的に情感が満ち満ちて来ます。・・・自分の感情とするには時間を必要としていたと思います・・・。

作品の解釈、繊細なところの感じ方は100人100とおりであって、それぞれに尊いものと思います。

演奏にあたって、作品の解釈には、主観的な自分の感じ方だけでなく他の解釈を知っては自分の感性で歌ってみるというプロセスが必要と、私は思っています。そして技術的には日本語を鮮明に発声する方法として多くの歌手が用いている、ローマ字化した日本語歌詞を楽譜に記して母音だけで歌ってから子音を付けて歌うトレーニングを行っています。トレーニングを続けるうちに、自分の内側から情感が湧き上がるようになって、突然に、「わかる!これだ!」と思えた時、がっちりと自らの心身に作品が組み込まれた感覚になります。演奏者にとっては、作品を解釈して理解しつつ自分の感性を通して心身と一致した情感が全てで、この情感を演奏で表現するのだと思います。『暁の星』はその感覚を得るまでに自分の中でのイメージが定まらず、あしかけ5年経っていました。

今、この作品に私が感じるのは、おんなとおとこの魂が一緒に救済される象徴が『暁の星』のまたたきであることです。その魂の救済にいたる、おんなの純粋な思いが、このモノオペラ『暁の星』の音楽に刻み込まれていると感じます。

おんなの純粋な一途な想いが激しく、繊細に、魂の慟哭となって氷の青い炎のように燃え上がっていると感じます。おとこは、その炎の中に居続けて昇華されていく・・・そんな画像が浮かぶ中で歌っています。

おとこの顔の高さまで白い百合の花が伸びてきたことは、おとこに対するおんなの必死の想いの現れであり、そして白百合がおとこの骨にこたえるほどの強い匂いを放っているのは、おとこに愛されようとするおんなの求愛の強さであると感じました。白百合は汚れ無き聖母マリアの表象とされていることはキリスト教信者でなくても広く知られているのではないでしょうか。この作品のおんなは、清らかで美しいと私は感じています。

そして『暁の星』がまたたいているのは、おんなが”待っていて!” と告げたとおりに、おとこが待っていたゆえに救済された、おんなの魂の輝きであると感じます。同時に、その輝く『暁の星』を、おとこが見つけたということには、そのおとこの魂もまた一緒に救済されたことが表されていると感じました。

そして、何故か…思い浮かんでくるのが、アンデルセン作の『人魚姫』の物語です。今でもずっと考え続けております。

1997年には、木下牧子プロデュースによるCD『木下牧子浪漫歌曲集』で全21曲の歌曲を収録させていただきました。渡辺健二さんのピアノの明るくて深くあたたかな情感が豊かな音の響きとなり、自らを主張することなく、あくまでも歌に寄り添って一緒に歌っている演奏であることに、心底「すごい!」と思いました。ソリストである渡辺健二さんの歌う力をひしひしと感じました。

今回の木下作品、モノオペラ『暁の星』のピアニストは仲村渠悠子さんです。現在、ショパンの全ピアノ作品をリサイタルで演奏発表なさっており、特に際立つ音質の透明感は、この作品のおんなの本質を表現していると私は感じます。木下牧子さんはピアニストでもあり、このモノオペラ作品のピアノパートには尋常ならざるオペラのオーケストラとしての表現欲求が込められていると私は感じており、歌と相まって創造される表現を求めていると思っています。どのような演奏になるのか…楽しみにしているところです。

多くの演奏家が望んでいることと思いますが、私も、私がこの世を去った後にも歌っていっていただけることを願って今回のCD収録に向かっています。

素晴らしいモノオペラ作品を作曲してくださった木下牧子さんに心から感謝しています。

 

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