写真:貴志康一がドイツ・ベルリンで出版した歌曲の楽譜の表紙
貴志康一の私の知る限りにおいて遺した言葉で心に響き続けているのは、「日本の詩と音楽をヨーロッパの感性に近づける」です。
それは、ドイツで貴志康一が出版した日本歌曲(ピアノ伴奏版)の楽譜の内表紙に貴志がドイツ語で記した文章の最初の言葉です。(原語『Die forgenden sieben Lieder sollen die japanische Poesie und Musik dem europaeschen Empfinden naeherbringen.』)
理解してもらおう、というのではなく、ただただ近くに寄らせていただく…という心持ちを感じます。
日本古典文学にも示されているような、私の思う、日本人の持っている本質的な心情を感じました。
そして、ベートーヴェンの交響曲第9番シラーの詩に込められたメッセージ「皆友達になろう!」を実践している、貴志康一を思いました。
また、28才で亡くなる頃に記した「・・・ウィンといえばワルツの都と思い浮かべる様に日本もせめて一つ音楽都市と世界に誇り得る大衆芸術が生まれてもよさそうなものだ。」(「病後随筆」『音楽評論』1937年6月号)には、貴志康一の夢が語られていると思いました。
指揮者・朝比奈隆氏は、貴志康一が存命であったら、私の活動は無かったかもしれない、と記述しておられます。
そのように大きな才能を持ち、夢をもちながら、貴志康一は28才でこの世を去りました。
貴志康一は日本の文化、日本人の情感を、西洋の人々の心に寄せようと、音楽家としてできるかぎり力を尽くしました。
日本の文化芸術の存在を知らせたい貴志康一は、全ての差異を問題としない音楽芸術を信じていたからこそ、あのような活動ができたのだと私は思っております。
その貴志康一の音楽芸術体験は、その作品の響きの中に感じることができます。
私には、貴志康一の作品演奏をとおして、貴志康一の真っ直ぐな心根と、人への信頼、希望、日本文化への敬愛、そしてそれらを世界中の人々に知らせたい、という想いが伝わってきます。実際、貴志康一は在独中に在独日本大使館ともコンタクトをとり、日本を紹介する映画を制作してドイツで広報していました。また、Dame(レディ)というドイツの雑誌に、美しいお妹様方が着物姿で勢ぞろいしている写真をのせています。そして自作品を自らベルリンフィルを指揮して演奏し、他の交響楽団とも演奏会を行っています。日本歌曲のオーケストラ版をドイツ人のソプラノが演奏し、貴志康一はその歌手に対して詳細に日本文化の説明をするなど演奏準備を徹底的に行いました。日本歌曲オーケストラ版の演奏は大変喜ばれ、その新聞評が遺されています。20才代の若者である貴志康一の帰国前までの行動力とその内容に、私は驚き、情熱の大きさに今も感動しています。帰国後は新響(現・NHK交響楽団)の指揮者として活躍し、日本で初めてベートーヴェン「交響曲第九番」を暗譜で指揮し、名演と評され、センセーショナルな人気を得ました。そして28才でこの世を去られました。
お妹様の山本あや様はじめ、ご家族様のご尽力で、貴志康一の作品、ドイツでの新聞評などが貴志康一記念室に遺されています。
山本あや様とお妹様方が私に下さったお写真を携え、コロナ禍の状況を見て、近々、また貴志康一記念室を、訪問させていただきたいと思っております。
下記に、貴志康一についてのご著書と、「貴志康一の歴史」を添付させていただきます。
『貴志康一 永遠の青年音楽家』毛利 眞人(2006年)
『貴志康一と音楽の近代 ベルリン・フィルを指揮した日本人』梶野絵奈,長木誠司他(2015)
『貴志康一―よみがえる夭折の天才』日下 徳一(2001)