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演奏:演奏準備 《花散る里》源氏物語,紫式部より

写真:大岡信の詩、一柳慧の作曲によるモノオペラ「火の遺言」舞台衣装の十二単を纏う筆者(有職文化研究所にて撮影)

演奏準備は、それぞれの演奏家がそれぞれの方法で行っています。

ひとつの例として、歌曲「花散る里」(源氏物語/紫式部より 、作曲は芝祐久 作詞は与謝野晶子)の私の演奏準備過程を記した,日本歌唱芸術協会会報 2022 年 9 月号の文章を加筆・修正してご紹介させていただきます。

【日本歌曲の演奏準備~一演奏家の事例】― 歌曲「花散る里」源氏物語(紫式部)より(芝祐久作曲 与謝野晶子作詞)― 豊田喜代美

演奏する曲が決まると、演奏家はそれぞれの方法で演奏準備を開始する。一つの事例として、源氏物語の「花散る里」から与謝野晶子(1878-1942)が作詞し、芝祐久(1928-)が作曲した「花散る里」(作曲年1951年)の演奏に向かう、筆者における準備について記す。

演奏準備の効果を高めることを目的に、主観を中心に、しかしそれだけでなく、演奏準備の経過に伴う事象と感覚を文章に記す「メタ認知」の手法を用いた客観的視点を取り入れた。

〇楽曲全体の把握

・楽曲の調性、リズム、文化的背景の把握:「花散る里」の調性はe-moll、リズムは四分音符,四分の三、アンダンテ♩=72の表示、であることを確認し、初見で歌手自らのピアノ伴奏で曲を歌唱し曲全体の印象を直感的に感知する。その結果、この曲には転調が多いので、調性を特定しないで歌唱することを決めた。続けて、楽譜の分析と文化的背景の学習と歌詞の詩の解釈を始める。演奏所用時間は約2分30秒であるとした。

歌曲「花散る里」の文化的背景を学習した結果、歌詞は与謝野晶子が現代日本語に訳した「源氏物語」の中の「花散る里」によるものであることが解った。文化的背景の学習と同時進行で楽譜上の音符とリズムを正確に音声に表す練習を始め、必要を感じた時にはメトロノームを使用した。1日の練習の最後には、自由に、歌詞の詩を私自身の心情に寄せて、感ずるままに歌っった。

・詩の朗読:与謝野晶子訳「源氏物語」を読み、「花散る里」の歌詞の「橘の 恋のうれいも散りかえば 香をなつかしみ ほととぎす鳴く」を、1日の午前と午後に15回ずつ朗読し、最初の朗読では言葉の音律の体感を目的に母音の明確な発音のみを意識した。朗読を録音して聴取し、より明確な発音を目的に、鏡で表情を見て顔の筋肉の動きと軟口蓋と舌の奥の動きを拡大する工夫をした。

・作曲家・詩人との共感:初見から7日目に自然に楽譜の音符とリズムが記憶され、この時点で歌曲の基本的解釈がほぼ定まり、この歌曲の作曲家と詩人との共感を得たことが自覚された。

以上、この作業で、与謝野晶子の現代語訳による「源氏物語」の中の「花散る里」を題材にした、この歌曲の調性とリズム表示を把握し、文化的背景の学習を行うことで、作詞家と作曲家の意思と世界観の全体像が浮かんでくるようになった。この時点で、詩の解釈を深化していく準備段階に進む。

詩:「橘の 恋のうれいも 散りかえば 香をなつかしみ ほととぎす鳴く」

〇「花散る里」(与謝野晶子)詩の解釈

・光源氏の女性への愛慕の念:光源氏は、近頃、昔がなつかしくて、何とも言いがたい、涙があふれるほどに、もの哀しい気持ちになっている。そのなつかしい昔、妻の1人であった「花散る里」の女性に会いたい気持ちが抑えきれないほどになり、長い間訪問しなかった、この女性を訪ねることにした。この女性は、特別に美しいという容姿ではないが、高貴で、知性があり、やわらかな雰囲気のある人柄である。長い間、彼女を訪問しなかったので、彼女に忘れられていても仕方のない光源氏だったが、彼女の光源氏への愛は続いていた。

光源氏は歌を詠んで、「貴女は1人でさびしいでしょう」とたずねたところ、彼女は、家屋敷に咲く橘に寄せた歌を詠んで、「貴方とのなつかしい思い出があるのでさびしくない」と答えた。

このことからは、「花散る里」の女性は光源氏と長い間離れていたが、その間にも、なつかしい思い出の中で光源氏への愛が持続していたことが示されており、この女性の光源氏への愛に対する精神性の高さがうかがえる。

光源氏は、そのような「花散る里」の女性の心持ちを尊いと思い、愛おしく思った。

・「花散る里」の女性とは別の女性の登場:紫式部は、「花散る里」の女性の高貴な心持を際立たせるために、もう一人別の女性を、「花散る里」に登場させていると筆者は解釈した。その次第は、次のとおりである。

光源氏は、「花散る里」の女性をたずねる道中、別の女性の家屋敷を通りかかった。自ら詠んだ歌を家来に託して、この女性に、今、訪問してもよいかどうかを聞いた。この女性は、光源氏が自分を長く訪ねてこなかったことから、別の夫を持ち、その夫が丁度一緒にいた。

この女性は光源氏の訪問をよろこんだが、別の夫がいることは明かさずに、今、光源氏を受け入れられないことを歌に詠んで家来に託した。

この女性の光源氏への不誠実さは、「花散る里」の女性の光源氏への誠実さ、愛の深さを際立たせていると、筆者は解釈した。

・詩の中のことばの「象徴」:解釈を進めるうちに、詩の中のことばの「象徴」に気づき、次のように解釈した。

「橘」の花は光源氏の華やかな昔の有り様を象徴しており、花の「香」は、なつかしい思い出の内容が快いことを象徴している。その花の香りは目には見えないが、香りを楽しむことで、なつかしい昔が、ありありと現前するかのようによみがえる。

「ほととぎす」は光源氏自身を象徴しており、「鳴く」は、光源氏が昔の華やかな快い思い出をなつかしんで泣く(鳴く)ことを現している、と筆者は解釈した。

〇楽曲の暗譜

初見から7日間の譜読み学習を経て知識の蓄積と相まって楽譜の音符とリズムが記憶され、楽譜無しのメロディと歌詞の歌唱が可能となった。この段階で歌詞の解釈が定まり、作曲者の音楽作品作曲に対する意思と詩人が現代語に翻訳した思いへの共感を持つことが出来た。

〇歌唱表現

・大きな音程の跳躍:歌詞の「恋の うれいも」のフレーズにある、9度の音の幅という大きな音程の跳躍は、喜び、悲しみの明確な発露とされていることから、短調の一フレーズの中にある大きな音の幅には悲しみの強調があると考えた。

・言葉の繰り返し :楽譜最後の部分の「ほととぎす 鳴く」で「ほととぎす」が2回、「鳴く」が3回繰り返されていることである。

詩の中のことばの「象徴」には、その言葉が象徴するイメージの強調があると捉えた。また、これら2つのことばの強調には、作曲者の詩に対する意思が示されていると判断し、作曲家の意思を、歌唱する自分自身の心情に寄せて、「恋の うれいも」と「ほととぎす 鳴く」の歌詞の朗読による言葉の響きを体感した。

・音楽作品解釈を音楽表現に活かす発声技術:作曲家と詩人への共感によって、歌手は、作曲家と詩人の思い、世界観としての音楽作品を音響に表すことができる。この音響の表出には、音符とリズムを正確に効果的に音響に表すために必要な発声技術の能力が要請され、歌唱では詩のことばを歌声で表す発声技術が必要である。

発声器官を傷つけない、ことばの発声は、「歌声とことばは、同一の呼気を用いて発せられる音声である」という認識が重要であると思う。1つの呼気の線上に真珠のネックレスの真珠のように母音が音声に形成されている意識で発声することを心がけている。

・ブレスの工夫:“恋の うれいも”のフレーズには音と音の幅が9度あることから、大きな感情の表現に相応の呼気エネルギーの必要性が認識された。

ここで問題になるのは、このフレーズの“恋の”と“うれいも”の間に作曲者がブレスを表示しているにもかかわらず、ブレスの表示箇所に休符が置かれていないことである。

作曲者の意図は、“恋の うれいも”は一言の流れで歌いつつも、十分な息を使う表現の深さ(大きさ)を要請していると筆者は捉えた。

“恋の うれいも”のフレーズの中の、“恋の”と“うれいも”の間のブレス表示箇所に休符が無いために、十分な息が確保されるだけの時間的余裕がないということに対しては、2つの歌唱方法を考えた。

1つめは、“恋の”の後のブレス表示箇所でブレスを行わずに、息を一時止めて音響の空白を作り、そのあとに“うれいも”の最初の“う”を、はっきりと歌う方法である。

2つめは、ブレスを行って呼気を確保する方法である。筆者は、この方法を選んだ。理由はこの箇所の表現には十分な息が必要と考えたからである。しかしブレスのための時間は無い。

そこで、“恋の”の前のブレス量を余裕を持って確保して息を使い切らずに残し、“うれいも”の前の休符表示の無いブレス表示箇所では、“恋の”の前の息の残りを土台にする意識をもって、体壁をゆるめ、その反動で自然に口腔を開け、瞬間的に息を体内に入れる、という方法である。

その時の下半身の状態は、微妙にひざと足首の関節がゆるみ、骨盤筋、股関節から膝関節、足首、かかと、足の底面が、バランスをとって支えている。この対策は、先に記した、緊張とリラックスが拮抗して調和している、基本的な身体姿勢を基盤にすることで実現できる。

この時の息の分量は多くないが、前で残した息を活用することができ、“恋の うれいも”はひとつのフレーズながら、うれいの深さと大きさが表現できたことをICレコーダによる録音で確認した。

・くり返されている「ほととぎす」における、歌唱時の息の使い方および鏡で確認した表情:「ほととぎす」は光源氏の象徴であると解釈したことを前提に、1回目の「ほととぎす」では、昔をなつかしむ光源氏の心情が、泣けるほどに強いことを、「ほho・とto・とto・ぎgi・すsu」の各母音を発する度に、呼気を強く腹壁にアタックさせて声を強め、声の質を硬質にするように工夫した。

そのときの顔の表情は、両目の上の筋肉が上がって中央に寄って左右の上顎部分が上がり、いわゆる「泣き笑い」の表情であることを鏡で確認した。

2回目の「ほととぎす」は、昔をなつかしむ光源氏の、もの悲しい心情を表現するために、呼気を腹壁に押し付けた状態のまま、「ほho・とto・とto・ぎgi・すsu」を音声に表し、声の強さを弱め、声の質をやわらかくするように工夫し、1回目の「ほととぎす」の表現との差を鮮明にし、表現を明確にした。

1回目よりも2回目の「ほととぎす」の発声時の方が、眉が、よりつり上がった。また、開けられた口の大きさは、2回目の「ほととぎす」の時に若干狭まったが、顕著な変化はなかったことを鏡で確認した。

また1回目の「ほととぎす」は光源氏の昔をなつかしむ心情を外に向かって訴えるように意識することで、もの悲しさの大きさが表現できるように工夫した結果、音量が増大した。2回目の「ほととぎす」は昔をなつかしむ心情をかみ締めるように意識することで昔の快さが表現できるように工夫した結果、音量が減少した。

・歌唱表現に影響を与えるイメージする力:「ほho・とto・とto・ぎgi・すsu」の言葉には「オ/O」の母音が多く、軟口蓋の様子を視覚的に確認できなかったが、2回目の「ほととぎす」の発声時の方が、軟口蓋が広がっていることが自覚された。

「ほととぎす」歌唱時の1回目も2回目も、昔をなつかしむ光源氏の、もの哀れな心情を強くイメージして練習を重ねるうちに、歌曲全体を満たす作曲家の意思と詩の意味が歌手自身の感情と一体化する実感を得た。

また、「鳴く/naku」の声の強さについては、3回目の「鳴く」に向かってフェイドアウトするように声の強さを弱めていった。1回目、2回目、3回目全ての「鳴く/naku」のnaの発声で、音声を両目の間の共鳴腔にしっかりと方向づけるように意識し、naの音声共鳴の中にkuの音声が響くように意識した。1回目よりも2回目、2回目よりも3回目の「鳴く」を、より遠くに向かって発声するように意識することによって、音声が弱まっていった。

そのときの表情は、“鳴く/naku”のnaで、開けられた口の大きさに変化はなく、声の強さが弱くなるのと比例して軟口蓋は広がって口蓋垂が下方に向き、両目の上の筋肉が上がっていったことを鏡で確認した。

この音楽作品「花散る里」の最後のことば“鳴く/naku”の最後の母音である「u」を、ほとんど「o」と発声したことによって、「く/ku」より良い共鳴が確保された。

・「花散る里」女性の高貴さの表現:花散る里」の女性の光源氏への愛が、なつかしい思い出と共に高貴な心に保たれていることを、上記、「o」の響きに込めたことで、この女性のやわらかな雰囲気がイメージでき、最後の“鳴く”の「ku」の音声の余韻の中に、「花散る里」の女性の存在の清々しさを強くイメージでき、表現することができた。

○1日の最後の練習

本番の演奏においては、準備してきた内容は残らず消化されていなくてはならない。既に血肉となって歌唱のエネルギーになる。その進捗状態を確認するために、1日の最後の練習では、自分を解き放って、のびのびと歌唱表現のみに神経を集中した歌唱を行う。

その一日最後の練習で感動を覚えた時に、準備はすっかり消化され、筆者がクラシック音楽の本質と考える「真・善・美」の世界に達する準備が整ったことが確認できると思っている。その感動とは、胸の奥のうずくような感覚と自分自身の身体とが直結して一体化した「発声機構」となり、全身全霊で歌唱している、という感覚である。あとは本番時の演奏で芸術創造の世界に飛翔(打ち上げ?)し到達できるかだ…。

いよいよ演奏本番となり、その本番演奏中に「自分は単なる歌う道具。演奏させられている。」という、一種のトランス状態といえる感覚になることがある。その状態においては「次の歌詞は?次はどう歌おう」とは全く考えない。「歌わされている、演奏させられている」という感覚は多くの演奏家に確認している。この体感は、楽曲自体が目指している芸術創造世界に導かれた証で、一段一段しっかりと階段を登るような演奏準備が導いてくれると筆者は思っている。

モノオペラ「火の遺言」では作品が完全に出来上がったのが公演当日だったので、演奏準備期間は与えられなかった。

モノオペラ「火の遺言」には、新作発表の他に日本文化を味わうという目的があり、「十二単の衣擦れの音を会場の皆さまと味わい、日本文化の楽しみを感じたい」という希望が込められていた。

モノ・オペラ《火の遺言》の観客の皆さまには、素晴らしい十二単の舞台衣装視覚・聴覚で味わい、背景に在る日本文化をイメージされ、それを少しでも楽しんでいただけたことを願っております。

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