写真:ケルン音楽舞踏大学のエレン・ボゼニウス教授の研究室にて。左からボゼニウス教授・歌曲伴奏の教授・筆者 1978年
※沖縄声楽発声研究会(現・日本歌唱芸術協会 https://www.jsaa-okinawa.org/)会報2020年9月号の文章の一部を転載し加筆しました。
最初の声楽の先生である萩谷納先生のレッスンは、作品の意味や世界観が理解できていることが前提であり、それは厳しく徹底していた。歌詞のフレーズごとの意味、単語一つ一つの意味は勿論のこと、辞書での意味だけでなく、その意味が自分のものになっていないと、鋭く見抜いた。
この指導によって、オペラ歌手になって多くの舞台を踏むようになった時に、例えばトスカを歌う時には、ローマのその場所に行ってカヴァラドッシが絵を描いていたとされる教会やトスカが身を投げた場所など、可能な限り実際に行ってその場に立って自分の感性で納得できないと演奏できなくなった。納得した感受性は深層の魂のレベルに達して爆発的な表現力が生み出されることを自分なりに体験している。18才からの萩谷先生の指導内容を、師が帰天後も継続している成果だと思っている。
萩谷先生は桐朋学園音大の聴音・ソルフェージュの授業も担当なさっており、楽譜を読むこと、その後ろに込められている意味についても詳細に指導を受けた。桐朋学園大学音楽学部は演奏家育成のためのカリキュラムを重視しており、聴音ソルフェージュは細かなグレード制に分かれ、最難度のクラスは無調であった。スコアリーディングの授業も充実していた。そのおかげで、プロになってからのオーケストラ定期演奏会などの器楽奏者との共演に緊張と共に楽曲全体の構成を感じることができ、深い喜びを自分なりに味わうことができた。特に世界的難曲とされる、ブーレーズ「プリスロンプリ」(五線譜とそうでない譜で作曲されているほぼ無調の大曲)が東京都交響楽団定期演奏会(若杉弘指揮)で取り上げられた時の演奏は、大学時代に培った演奏基礎力がなければ、表現にまで到達できなかったといえる。
萩谷先生の声楽レッスンは、最初はイタリア歌曲、次にドイツ歌曲が加わり、そしてオペラアリアの順に進んでいきフランス歌曲が加わった。萩谷先生のピアノ伴奏はその音色も音楽性も例えようもなく美しく、授業で様々な歌曲演奏時には、いつも感動に魂が震えた。後に、それは言葉では表せない芸術の至高世界というものに導いてくださっていたのだと思っている。声楽とピアノの音の響き合いが歌い手を深く感動させ、歌手が思ってもみない演奏表現が創造されることを、萩谷納先生のピアノ伴奏で体験できたことを幸いに思っている。そのことによって感受性が鍛えられていったと思う。
萩谷先生の発声指導は『あくびのように喉を開ける』だけであった。当初、歌うと上がる舌根をスプーンで押さえて発声練習した。時々もどしそうになるので食事2時間後位から始めた。忍耐の一語に尽きた。
後に東敦子さんとコンクールの審査委員でご一緒した時に「発声にはトンネルを掘るような忍耐が必要」と話していたが、それは「トンネルを掘る時には先に光がいつ見えるのか解らない。けれど信じて忍耐して掘り進めるしかない。必ず光に到達する」という意味だと思っている。
萩谷先生は「最初は息の多い声だが、ある日突然に共鳴腔に当たるようになる」とのことだった。喉の開け具合が分からずに開けすぎで息だけが出て、歌声が出なくなる困難を経験しつつ、徹底して『あくび』の喉の形で発声に励んだ。徐々に低音が充実し、2年時にはオペラ《サムソンとデリラ》のデリラ(メゾ・ソプラノ)のアリア〈あなたの声に我心は開く〉などを歌っていた。3年次後半、ムゼッタのアリアの自主練習中に突然、頭頂から歌声が天に突き抜けるような感覚を覚え、「萩谷先生がおっしゃっていたとおりだ!」と思った。自分なりに「喉が私の骨格や筋肉の具合に適切に開くようになり共鳴腔に的確に当たる」と考えた。
卒業時にはハイソプラノのシャモニーのリンダを歌った。萩谷先生は「君は素直。よく忍耐して発声(喉を開ける)をがんばったね。素直は演奏家の才能の一つ。メゾ・ソプラノでもソプラノでも、思う方を選びなさい」と言った。
この「素直さ」については、後に留学したケルン音大のBosenius先生も研究生たちとの食事の際にキャラクターに触れて言われた。「プロになるのに大切なことを教えて下さい」との質問に、「1から無限まで性格が重要。素直なキャラクターであることだけが重要」とお答えになった。
4年次からは萩谷先生の勧めで柴田睦陸先生の指導も受け、奥様で名ソプラノの誉れ高い柴田喜代子先生からもレッスンを受けた。柴田睦陸先生は中山悌一氏ら4名で「二期会」を創設し、イタリアオペラの主役を歌うスター歌手だった。柴田睦陸先生は話し声がそのまま歌声になっていた。必死にレッスンを受け、丹田と共鳴腔が一体に機能することの必要を学んだ。
蝶々夫人のアリア他を英国カーディフでBBCウエールズオーケストラと歌うことになり、睦陸先生と喜代子先生のお二人ご一緒にレッスンして頂いた。蝶々夫人を何度も歌った喜代子先生からは可憐で芯の強い純粋な蝶々夫人が自然に表情にも表れるまで、息づかいとフレージングを細かくご指導頂き、アリア〈ある晴れた日〉の最初の一音だけを少なくとも30回以上指導を受けた。この一音で蝶々夫人の全てが表れているように、とのことだった。
ドイツケルン音大マスタークラスではElen Bosenius教授の研究生になり、通常の発声練習の他に、パミーナのドイツ語の発音から発声法に入る指導も受けた。レッスンにはディクションの講師も同席しており、細やかな発音指導を受けた。ドイツ語の発音もイタリア語の発音も歌唱時の喉の開きを意識しなければならなかった。言葉から歌の発声に入る指導からは、私の骨格に繊細に合致した発声を感じた。
同時にデュッセルドルフの歌劇場ボイスコーチのNina Stano先生に発声指導を受けた。スターノ先生はウィーン国立歌劇場で夜の女王を歌っていたポーランド出身の声楽家で、その歌声は透明で真っ直ぐ揺れが無く強靭だった。スターノ先生はご自分の丹田の筋肉の動きを手で触らせて『共鳴の焦点である両目の間に響きのゴチックを作る』『丹田は一音一音歌う直前に働かせる』など指導してくださった。スターノ先生の強靭で響き渡る真っ直ぐな歌声は、とてつもなく強い丹田の運動によって生み出されていることが解った。
2008年からのウィーンのボイスコーチBaddi氏からは『丹田にピアノの鍵盤を作るようにハミングで音程を刻む』の教えを受け、最初の3週間は土・日も無く毎日通い、自主練習は厳禁だった。ミレッラ・フレーニのボイスコーチもなさっていて「ミレッラは丹田に鍵盤がある。彼女は今も発声が進化している。人の発声機能はこの世を去る瞬間まで向上する」と言い、「ハノーファでバタフライを探している。お前行ってこい」,豊田「私は57歳」,B先生「目も大きくスタイルも大丈夫。年齢は問題にならない」,豊田「大学赴任の可能性がある」,B先生「日本人(であること)を捨てろ」,豊田「その意味は?」,B先生「謙遜、一夫一婦制」,豊田「捨てられない」のやり取りがあった。これには重要な意味があると考え、沖縄県立芸大の私の門下生には伝えた。
私が受けた発声のレッスンは全て、丹田と共鳴腔が感情の喚起とリアルタイムに働き、感情がそのまま歌声に投影される発声機構を作ることで、2006年からは身体運動科学の見地が加わったトレーニングを継続している。100人100とおりの身体が楽器である声楽にとって、究極はその人自身が自らの身体に適った発声法を見つけること、と思っている。そのためには、主観のみになりがちな発声法に客観的な科学的視点を常に持つことは有益である。
現在(当時2020年)、東京大学教養学部1,2年生に、授業「楽器としての身体:声楽の実践と科学」を身体運動科学者の工藤和俊先生と担当している。これは東京大学が昨年新たに設置した「芸術創造研究連携機構」の一環で他に美術などもある。※東京大学芸術創造連携研究機構発足シンポジウム 「学問と芸術の協働 ―アートで知性を拡張し、社会の未来をひらく―」(https://www.youtube.com/watch?v=BCC-Y2Wr-dg&t=14308s)
授業の内容は、18,19歳の学生さんに身体運動科学の「体幹」を中心としたトレーニングで姿勢を整えると同時に声楽発声を研修し、その人の身体に合った発声を見つけ、芸術創造体験を促すもので、歌唱曲は日本の歌曲を用いる。詩の朗読により、個々人の解釈の違いを皆で味わい、感受性の開発・深化に努めている。この授業で豊田は体幹を鍛え、工藤先生も声楽発声を身につけている。私は、学生さんの、奇跡ともいえる格段の歌唱力向上に接し、その高い自主練習能力と優れた理解力に心底驚いている。授業の中での科学的な検証によって自分の発声状態を視覚的に確認することは「自覚」を促し、有益である可能性があると考えている。学生さんは徐々に自信を得ていき、心を開いていき、演奏時直前に身体全体の姿勢が整うようになる。その姿は自然体で凛々しい。楽器としての身体作りの成果が全員に在ることを我々はとても嬉しく思っている。
【発声研修⇒演奏⇒反省⇒発声研修⇒演奏⇒反省⇒の繰り返し】で歌唱技術向上のスパイラルが生まれると考えている。
指導くださった先生方の、厳しく妥協無く高みに導こうとする愛情の強さ、真摯で誠実な人格に触れたことこそ、最高のレッスンだと思っている。思い出すだけで感謝の想いがこみあげてきて胸が熱くなる。
ありがとうございます。