活動について

近づくリサイタル:貴志康一について

写真:2回目のリサイタル時

9月23日(火・祝)サントリーホールブルーローズでの公式演奏歴50周年記念リサイタルが近づきました。内容は以下のとおりです。宗次エンジェル基金;日本演奏連盟正会員のための講演活動支援事業/後援:公益社団法人日本演奏連盟 学校法人甲南学園貴志康一記念室 日本声楽発声学会 日本歌唱芸術協会./マネジメント・後援:公益財団法人東京二期会./協力:株式会社プロコミュニケーション.入場券 (全指定席) : S席 7000円, A席 5000円 /二期会チケットセンター:03-3796-1831,平日10:00-18:00,土10:00-15:00.日・祝休 /サントリーホールチケットセンター:0570-55-0017 10:00-18:00,休館日を除く/チケットぴあ(Pコード 282-858) / https://t.pia.jp

9月23日(火・祝)のリサイタルでは、これまでの感謝と共に、指揮者で作曲家の貴志康一その人と作品をお知らせすることを目的としております。貴志康一はNHK交響楽団当時は新響)の指揮者として実績をあげ大きな期待を寄せられていた矢先の28才で逝去しました(1909-1937)。その作品はドイツにおいて多くの人の心に日本の情感をお届けした可能性があり、その確かな記録である新聞評などが貴志康一記念室にあります。1人でも多くの方にサントリーホールブルーローズにお出で頂き、演奏とスクリーンによる貴志康一を知って楽しんでいただき、次代に繋いでいけましたら幸いに思います。

**************************************

■ 指揮者・作曲家 貴志康一のこと

貴志 康一の音楽を支えるもの (熊倉功夫・記)

2009年に開催された「貴志康一生誕100年記念演奏会,芦屋市ルナホール」の実行委員長熊倉功夫氏(歴史学者)は、貴志康一という人格が生み出した音楽作品は父親の存在・支えがあってこそだということを、「貴志康一生誕100年記念音楽会」プログラムに記してくださいました。その文章そのままをお伝えさせていただきます。

*********************

貴志 康一の音楽を支えるもの-父・弥右衛門の存在「生活の中に生きている茶道・禅・教養」熊倉 功夫

本年、生誕100年を迎える作曲家・指揮者の貴志康一の名前を私が知ったのは、実は音楽ではなく、その父親の貴志弥右衛門との出会いからです。今となってはほとんど半世紀ちかく前のことになりますが、古本屋で、一冊の戦前の雑誌を手にとりました。『徳雲』というタイトルで、ずいぶんページ数もあり、しかもその半分くらいがぜいたくな建築の写真集。当時、わたしは近代の茶の湯の研究をしていましたから、その目次の中の「茶道の一考察、教養としての茶道 聴雪生(貴志弥右衛門)」という一文が目に留まりました。読んでみますと非常に哲学的な立派な論文です。驚きました。昭和4年(1929年)にこんなすばらしい雑誌があったとは。

貴志弥右衛門という方を調べてみますと、大阪の洋反物を扱う大店に生まれ、三高から東京帝国大学哲学科に進み、一時甲南女学校の先生もしましたが家業を継ぎ、妙心寺徳雲院を拠点として茶道と禅と教養を一体とした生活の実践につとめた方であることがわかりました。その成果の一つが雑誌の『徳雲』でした。

知られざる近代数奇者として弥右衛門のこを書いた拙文から山本あやさん(貴志康一の一才下の妹)とのご縁が生じました。さらに康一の音楽へと私の世界が広がっていきました。あやさんは、父上の弥右衛門、兄上の康一、二人の顕彰を生涯の大事としておられました。その情熱と、気品在る、まるで絹ずれのような美しいふるまいとお姿に圧倒されました。あやさんから、大正・昭時代の最も上等な日本人のエッセンス教えられように思います。

貴志康一の音楽を考えるのには父弥右衛門の存在が大きいでしょう。康一は当時、西欧の音楽の理解において他の追随を許さぬ天才でありますが、その発想の背景に、日本の伝統文化、東洋の仏教があるのは父の影響でしょう。弥右衛門が理想とした茶道、禅、教養は、単なる知識や習い事ではありません。生活の中に生きたものでなければならない、としています。その理想の生きた姿が、父弥右衛門が芦屋に建造し命名した『子供の家』だったのではないでしょうか。その芦屋に、今、父弥右衛門とあやさんと共に康一の音楽がよみがえるように思います。

*熊倉功夫略歴:日本の歴史学者。学位は、文学博士。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、MIHO MUSEUM館長、茶の都ミュージアム館長、静岡文化芸術大学名誉教授・前学長、林原美術館元館長。2014年中日文化賞受賞。2022年、文化庁長官表彰。(参考資料:ウィキペディア) 

*****************************

貴志康一の育った家庭環境:上記、熊倉功夫氏の文章から、貴志康一の父・弥右衛門の築いた家庭は「茶道、禅、教養」が基盤となってることが分かります。といっても日常の家庭生活は堅苦しさとは無縁の、子供達が中心の楽しいものだったことを、あやさんから伺っています。例えば、弥右衛門さんは妻と子供達全員を連れて、よくハイキングに出かけたこと、お話を聞かせてくれたこと、そして、毎週末には階段の踊り場をステージとして家庭演芸会が開かれていて、1人1人何かパフォーマンスをしたことなどです。

貴志のドイツでの生活と音楽活動:貴志康一がドイツでベルリンフィルハーモニーを指揮した時に、オーケストラの団員に「あなたたちを前にして感じるのは、日本の茶道のごとく深い静けさである。」というような言葉を伝えました。茶道具一式をドイツに持参しピアノの傍に設えていた貴志は、幼少の時から父の弥右衛門に茶道、禅、教養を通して日本文化の深淵に触れながら成長し、それら日本文化の精神はドイツでの貴志の心の平安に寄与していたのではないでしょうか。

日本人が西洋クラシック音楽を作曲,指揮することに疑念を呈されることに対して、貴志康一は自らの作品と演奏(指揮)によって、その解答を示してきたと私は考えています。作曲創造の源は、父・弥右衛門から受けた『茶道.禅.教養』に基づく、1人ひとりの子供たちの個性が育つ、のびのびとした楽しい家庭にあったと思います。貴志の歌曲、ヴァイオリン曲、交響曲のどの作品も、静謐さと陽気な明るさが感じられる魅力があり、特にドイツ国内でドイツ人ソプラノによって演奏された歌曲(オーケストラ版)作品は非常に高い評価を得たことが、貴志康一記念室に収蔵されている新聞記事で分かります。「日本人の情感を西洋の人の心に寄せる」との貴志康一の願いが叶った一つの証であると考えております。

貴志康一は18歳でスイスに留学し、ドイツでヒンデミットに作曲を、指揮をフルトヴェングラーの薫陶を受けて研修し、プロの音楽活動とその批評などの新聞記事は芦屋市の甲南学園中・高等学校に設置された貴志康一記念室に収蔵されています。https://www.konan.ed.jp/kishi/

貴志康一の伝えたいこと:貴志康一は『日本人の情感を西洋の人の心に寄せる』とベルリンで出版した楽譜に記しています。何とも謙虚で優しい言葉!と私は感動しました。理解してもらう、とか、説明する、ではなく、ただただ、近くに寄る…のだそうです。それは貴志康一自らに日本の文化に対する誇りと愛情がなければ出てこない言葉だと私は思っております。

ドイツでの音楽活動と帰国しての活躍・逝去:18歳でスイスに留学しドイツで活動した一人の日本人音楽家として、貴志康一は稀有な存在であることがいえると思います。

留学時は自分の専門のみに集中して研鑽するのが一般的ですが、貴志康一はそれだけではありませんでした。貴志はドイツでは作曲と指揮活動だけでなく、ビデオ制作と発表、雑誌への寄稿など、ありとあらゆる機会を捉え、日本人とその生活を西洋社会に知らせるために、在独大使館ともコンタクトを取り、ドイツと日本を行き来して、着物を着た妹たちの写真を撮影してドイツの女性誌DAMEに掲載したり、それはそれは懸命に努めていました。

当時、日本のイメージといえば富士山、芸者であることを18歳の貴志康一はスイス留学で肌で知ったと思います。そのことを貴志はどう感じたでしょうか。豊田がドイツ・ケルン音大に留学していた1979年でも「日本には地下鉄が走っているのか?」と聞かれて唖然としたことがありましたので…。貴志康一は、貴志自身が体験してきた、父・弥右衛門の「茶道、禅、教養」に基づいた楽しい家庭生活を西洋の人に知らせたいと素直に思ったのではないかと私は考えています。音楽は人に心を寄せることができると信じて、その最高を求めてフルトヴェングラーとヒンデミットの薫陶を受け、ドイツでの指揮と作曲の研鑽と演奏実践に努めたと思います。ベルリン・フィルハーモニーの奏者たちを前にして「日本の茶道のごとく…」と述べた貴志の心中はどのようなものであったのかを思いめぐらせております。

貴志康一は新響(現NHK交響楽団)の指揮者として、特にベートーヴェン作曲交響曲第九番で大成功をおさめ、完全帰国した貴志は銀座に事務所を設立し期待される中、28才でこの世を去りました。決して長い生涯とは言えませんが、貴志の願いのとおり、確かにドイツの人の心に触れて喜ばれた歌曲他の作品が遺されています。康一を精神的、金銭的に出来うる限り支援した父親の弥右衛門は、康一逝去の1年前にこの世を去っています。

指揮者の小松一彦氏は、貴志の歌曲を合唱に編曲することを進め、自ら指揮をして広めておられました。合唱曲となった貴志康一の「歌」には爆発的な躍動感と深く染み入る情感が際立っています。多くの皆様に歌っていただきたいと願っております。

エピソード:貴志康一逝去後の貴志康一作品演奏会は全て土砂降りの雨になることが関係者の間で知られていました。ヴァイオリン奏者の辻久子氏からは、洪水のようにホールのまわりに水があふれる中演奏したことを、1987年の没後50年の演奏会(東京都交響楽団定期演奏会,日本の作曲家シリーズ第一回)の共演時に伺いました。この演奏会は雨模様の中開演し終演後は雨が上がっていました。筆者はこの演奏会で歌って以来、康一の妹、山本あやさんと共に貴志作の詩が作られた場所を訪れ、お話を聞く幸せを得ました。中でも貴志家菩提寺の京都妙心寺は、庭の樹々や苔のしっとりした佇まいと匂いが今でもくっきりと思い出されます。貴志はこの妙心寺によく泊っていたそうで、「行脚僧」もこの妙心寺で作詩されたとのこと。貴志康一の歌曲は詩も貴志康一作がほとんどで、歌曲はどれも活き活きとして切れば血が出るような生々しさがあり、しっとりと明るいという特徴があると私は感じております。

9月23日の演奏会(リサイタル)では貴志康一その人と作品を多くの方にお知らせし、次代に繋げたいと願っております。貴志康一作品は故郷である関西で演奏される機会は定期的にありますが、その他の地域の演奏はほとんどありません。それはとてももったいないことだと私には思えてなりませんでした。

豊田の公式演奏歴は1975年読売新聞社主催新人演奏会(東京文化会館大ホール)が最初で、おかげさまで、今年2025年で50年になり、その間に与えられた演奏体験から次代に繋げたい作曲家とその作品の最初に貴志康一を選びました。

本年9月23日(火・祝,14時開演)開催のリサイタル「演奏歴50周年記念リサイタル-次代に繋ぐドラマチック・ソング-貴志康一」(サントリーホール・ブルーローズ)では、これまでにリサイタルでは行わなかったトークを交えて演奏するスタイルを決めました。広く貴志康一を知って頂くために、貴志康一が在籍した甲南学園中・高等学校内「貴志康一記念室」の先生に貴志の年譜を舞台上の大スクリーンに写真で解説することをお願いしました。貴志康一の家庭環境や生涯を知るのに大きな助けになり、作品の味わいも深くなると思っています。

日本の雅を世界に印象づけたヴァイオリン曲:貴志康一はヴァイオリニストでもあり、湯川秀樹博士ノーベル賞授賞式では貴志康一作曲のヴァイオリン曲「竹取物語」が聴かれ、たとえようのないしなやかな美しい響きは日本の雅を世界に知らせることになりました。上記リサイタルでは、澤和樹氏のヴァイオリンによって「竹取物語」と「月」が演奏されます。澤氏とはJ.S.バッハの演奏共演の際、そのあくまでも透明でしなやかで強靭な音色が清冽でした。貴志ヴァイオリン曲の演奏をとても楽しみにさせて頂いております。ピアノは豊田の最初のリサイタル「毎日ゾリステン」、またCD収録でも共演くださった渡辺健二氏です。曲に込められた意味や情景をくっきりと弾き浮かべ、それを感じた歌唱と相まって繊細な表現が創造されます。歌曲は、赤いかんざし、かもめ、藝者、風雅小唄、行脚僧、天の原、かごかき、の予定です。貴志康一作品演奏について演奏者の観点から短くお話いたします。澤和樹氏と渡辺健二氏のトークをとても楽しみにしております。当日は演奏における質問も受けたいと考えております。

しかし、しゃべることで歌唱のクオリティに負の影響が出ると判断した時には、控えたいと思います。リハーサルを重ねて考えて参ります。

豊田を音楽の道に導いた教育理念と教育システム:演奏歴50周年ということを改めて思いめぐらせた時に最初に浮かんだのは、何故、声楽の道に立ったのか?ということでした。私を音楽の道に導いてくれたのは、桐朋学園普通科女子中・高等学校の教育理念と教育システムだったことに気づき、深い感ところからの感謝があふれてきました。聴音ソルフェージュとピアノを5才から研修していましたが桐朋女子高普通科に入学した時は父と同じ分野,体育大学進学を希望していました。私は入学時には音楽科の存在を全く知りませんでしたし、高校在学中に普通科と音楽科の交流も一切ありませんでした。

生江義男校長先生は、1人ひとりの個性に注目した女子高ならではの教育理念を毎週の校長講和で丁寧に説明されましたので、私達学生は内容をよく理解して選択授業を選ぶことができました。また全校生の作文力が開発される教育システムによって、同級生には作家の桐野夏生さんがいらっしゃいます。

桐朋幼稚園からの一貫教育で育っている友人との6人グループは豊田の他全員が音楽家志望だったので、その影響で私も音楽家志望になりました。何と主体性の無いことか…と思います。「音楽は楽しく自分勝手が良い」と思っていましたが、音楽家志望の道に立たせてもらいました。声楽を学び演奏する試練と喜びを体験するのにはまだ時間を要しますが、少なくとも一人(著者)の人生を桐朋女子教育の理念とシステムが決定したことを重く受けとめています。この高校に入学しなければ音楽の道に行かなかったことを考えると、恐ろしさがこみあげてきます。

日本作品と演奏への海外の関心:近年は海外からの日本音楽作品(歌曲)および演奏へのアクセスが増加傾向にあるとのことです。日本歌曲をはじめ音楽作品と演奏が世界に広まるということは、海外の方々が日本の情緒を知る機会が増えるということだと思います。貴志康一が願っていたことであり、大変喜ばしいと思っています。貴志康一は明るく真剣に一生懸命に生きた人でした。

私も1人の声楽家として貴志さんに恥ずかしくないよう、私のボイスコーチが言う「歌唱技術はこの世を去る瞬間まで向上する」を信じて精進して歌っていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20

 

 

 

 

PAGE TOP