※ 写真:Mulier fortis 1698年ウィーン初演 作曲家シュタウトによる自筆原譜表紙
■ ガラシャ婦人の最期
細川ガラシャ最期の記録として、細川護貞著『魚雁集 細川家に残っている手紙』をご紹介したいと思います。
読むと、人質にはならない、との、夫との約束を果たそうとするガラシャの潔さ、付き従う家来たちの動き…その時の臨場感と壮絶さが思い浮かびます。
私が思わず涙したのは、最後のくだり『夫人の身近にあったものは細川家にはほとんど残っていないが、わずかに短冊一枚、書簡一枚、光千代のために作った下着数枚、それに刺繡のある布のみが残っている。』です。
ガラシャは、歌を詠み、お手紙をしたため、わが子のために下着を作り、刺繍をする日常をおくっていたことが分かります。わが子への想いは、いかばかりであったことか、と思うと胸が熱くなります。
戦国時代、武家の女性ならではの心情というものを細川ガラシャから感じるのは私だけでしょうか…。
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細川護貞 著 『魚雁集 細川家に残っている手紙』
思文閣出版 平成 2 年発行 懐徳録pp144-146
◇ ガラシャ婦人の最期
忠興夫人は、夫忠興を始め、子供たちへの形見の品や消息を、「おく」と「しも」の二人に渡し、三男の三千 代の乳の人には、三千代の形見を渡した。「おく」と「しも」の二人は、夫人のたっての「仰せ」こばみがた く、夫人の最期を見届けてからこの館を逃れ出で、その有様を忠興に知らせることを約束した。
夫人は、
さては心にかかる事なし。小斎、介錯仕り候え
と命じ、小斎は長刀をさげ、老女を先に立てて次の間に来た。夫人は髪を自らキリキリと巻き上げたが、小斎 が、左様にてはござなく候
と言うと、夫人は、
心得たり
と言って襟を両方へハッと押し開いた。小斎は敷居をへだてていたが、
御座の間に入り候こと憚り多く候えば、今少し、こなたへ御出遊ばされ候え
と言った。夫人はそこで敷居へ近い畳へ居直った。小斎はその時、長刀で夫人の胸元を突き通した。
「おく」と「しも」は泣く泣く身支度のためにその場をはずし、小斎らは、夫人の遺体に蔀(しとみ)ややり戸をかけ「鉄砲の薬」をまきつけて火をかけた。別室に下がった小笠原小斎と川北無世とは、川北六右衛門 の解釈で切腹し、六右衛門も切腹した。金津助次郎は、夫人の遺骸が燃えつきるまで、燃草を投げ込み、台所にはしごをかけて屋根の上に出で、大肌抜いで立ちながら、
われは金津助次郎という者なり。越中守奥方生害にて、小斎、石見も殉死を遂げおわんぬ。
士(さむらい)の腹切って主の供する様を見よ。
と高らかに呼ばわり、腹切って焔の中に飛び入った。
「おく」と「しも」は仕度をして外へ出ると、早や火は家にまわっていた。小斎に頼まれて飛脚となった介六と新左衛門も家を出て二丁程行くと、猛火が盛んに燃えさかっていた。介六は、
主、親の最期を見捨て、一歩も先へ行かれず
と言って引き返して火の中に飛び込んでしまった。
以上が、忠興夫人の最期の有様である。時に夫人は 37 歳であった。
夫人は初め、建仁寺の芝浦永雄長老に三十余回も参学した。夫の忠興は夫人に向かい、
大徳寺の参学よりは心安き物なるべし
と言っていた。その後、加々山小右衛門の母が切支丹を薦めた。夫人はかねがね、ことのほか「物忌み」をしていたが、切支丹となって、それも少なくなったので、忠興は、
切支丹は物を打ちやぶりにして“はか行く”べし
と考え、薦めたことさえあったが、のちには、やめさせようとしても、夫人はやめなかった。
夫人の身近にあったものは細川家にはほとんど残っていないが、わずかに短冊一枚、書簡一枚、光千代のために作った下着数枚、それに刺繡のある布のみが残っている。