写真:オペラデビューの頃のケルビーノ(楽屋にて)
ドイツのケルン音楽舞踏大学留学から1年半目で帰国したのは、二期会オペラ公演《フィガロの結婚》ケルビーノと、東京オペラプロデュース公演《セヴィリアの理髪師》ロジーナのオファーをいただいたからです。
「マネジメントが決まったのに帰国するなんて、いくじなしだ!」と、同時期に留学していた指揮者志望の人に言われました。その時は「そういう考えの人もいるのか。」と思っただけでしたが、帰国するのかしないのか迷っていた時だったので、その強い口調に心の痛みを感じました。迷い続けているうちに幻聴が続いて・・・遂にドイツ語でleicht da,leicht da….と耳元で囁かれるようになり、自分でも精神状態が危ういと思い、同じ女子寮に住むピアニストの星出雅子さんの部屋で彼女のお母さまから送られた自家製梅酒を楽しみながら語り合いました。その晩はぐっすりと眠ることができ、翌朝起きた時には「日本に帰ろう!」とすっきりと気持ちが決まっていました。
ケルビーノは桐朋学園音大のオペラ公演(指揮:尾高忠明)でも歌わせていただきました。その舞台で「ああ、これで私がこの公演を台無しにしてしまった!」と思った事がありました。それは、ケルビーノがスザンナと伯爵夫人の部屋にいる時に伯爵が部屋に入ってこようとした場面でのことでした。ケルビーノは見つからないよう逃げようとしてあわてふためいて部屋を走り回り、結果、庭に飛び降りるのですが、私は走り回っていてものすごい勢いですってんころりと滑って転び、野球の盗塁の時の滑り込みセーフ!の様に滑って行った足が戸を開けてしまったのです。開いた戸には、何と伯爵が立っていました・・・。伯爵は落ち着いて扉を閉めてくれましたが、その時、私は「ああ、この公演を台無しにしてしまった・・・!」と心臓が凍りつきました。この時のことは生涯忘れないと思います。しかし、その時会場がワーッと湧きましたが、その後は何事もなかったかのように演奏は進んでいきました。何でも、私が滑って転んだことで、それまで硬かった客席の空気は一気にゆるんで、公演を楽しむ雰囲気になったと皆に言われました。
帰国してからの二期会公演のケルビーノでも、上記と同じ場面でハプニングを起してしまいました。それは、ケルビーノが隠れた部屋から飛び出ようとしても、ドアが開かず出られないというハプニングです。あちらに向けて開けなくてはならない扉を必死になって、ガタガタと手前に引いていたのです。
舞台袖に舞台監督の小栗哲家さんの青ざめたお顔がチラッと見えた途端、冷静になって開けることが出来、無事に窓から庭に飛び降りました。
直ぐに舞台裏で小栗舞台監督が飛んできてくださり、落ち着かせてくださいました。この舞台だけでなく、小栗哲家舞台監督は、歌手が安心して歌うことに集中できる環境を、それこそ徹底して作ってくださっており、そのことは誰もが知っていると思います。感謝しています。そのプロフェッショナルな評判は世界的になり、海外からの劇場日本公演でも、その力を存分に発揮なさっておられました。
・・・上記2件のことで私がケルビーノ役から学んだのは、先ず、舞台と靴の相性を確認すること、そして、実際に衣装をつける舞台稽古初日には稽古開始前に舞台上を動いて徹底的に諸所確認することの重要性でした。
ケルビーノは、その後、各地で公演する「文化庁移動芸術祭」でも歌わせていただき、同じ役を回数多く歌い演じることになり、その時の素晴らしい先輩声楽家との共演体験が、新人の私にとって、かけがいのない「糧」となりました。
心から感謝しています。