写真:ニーナ・スターノ(Nina.Stano,ヴォイスコーチ)先生と豊田 デュッセルドルフのレッスン場で
ケルン音大に入学して直ぐに、デュッセルドルフ歌劇場の第一テノールで契約していた若本明志氏から「世界で3本の指に入ると言われている名ボイスコーチのニーナ・スターノ先生を紹介します。」と言われました。スターノ先生はウィーン国立歌劇場で《魔笛》の夜の女王を歌っていたソプラノで、それから少なくとも20年以上にわたり、日本でのオペラおよびコンサートの演奏会が決まる度に楽譜を携えて東京とデュッセルドルフを行き来してレッスンを受け続けました。
しばらく通わなかった時に、普段全く私の声楽活動について徹底的に何も言わない母が、「スターノ先生のところに行って来たら?」と一度だけ言ったことがあります。演奏を聴いて、レッスンを受ける必要性を感じたのだと思います。それからまた通い、2日間だけデュッセルドルフに滞在してスターノ先生のレッスンを受けたこともあります。それは、東京都交響楽団定期演奏会,若杉弘指揮のブーレーズ作曲《プリスロンプリ》の時でした。現代曲で演奏難曲の大作です。五線譜だけの表示ではありません。音が歌えるようになってきた頃、歌っていて気づかないうちに体幹がズレて、気がついた時にはハイDを歌う体勢が整っていないような状態を正すために行きました。
スターノ先生は、「この曲は何だ?!」「どうしても歌うのか?」「信じられない!」「おお、神様!」と言いながらも、歌う全ての音符と身体の状態をチェックし、体幹がズレ始める箇所を的確に指摘してくださいました。そして、その音符を歌う直前に丹田を使うこと、そのためにはフレーズごとにキープする丹田の状態について指導くださいました。先生の丹田に私の手をあてて、その動きを教えて下さいました。また、共鳴腔に当たりにくい響きの言葉でもしっかり当たるようにあいまいに発音する工夫など、徹底的に指導くださいました。
スターノ先生は、一音一音を丹田に刻み込むように発声指導なさいました。スターノ先生の体内には音も無く瞬間的に大量の息が入り丹田が支えます。それは、胸全体、ウエストの後ろ、そして背中などの体表が瞬間的に膨らんで息の入るスペースを作っているからでした。スターノ先生のお腹の筋肉は柔軟で強靭で、まるで野球のバットのように感じました。投げられたボール(音声)をポーンとホームランになるように打ち返して共鳴腔に当てていました。ボール(音声)は当たると、「両目と鼻のあたりに響いて、ゴチックの塔が表れる。」と仰っていました。そして、演奏中によく声かけがあったのは、「heben(リフト)!」でした。メロディーを歌う時にも一音一音を丹田で自覚し、その一音一音の響きを持ち上げて移動することを徹底していました。一音の響き…正に真珠のネックレスの例えである「一音は真珠、それをつなぐ糸は響き」が想起されます。
ウィーン歌劇場で響き渡るスターノ先生の歌声のエネルギーとしての息が、スターノ先生の体内にどのように在って、そのエネルギーをコントロールして歌声に変換する発声技術を、スターノ先生は自ら歌うことによってもしっかりと示してくださいました。先生がハイFを歌われた時に私は「素晴らしいハイF!あなたの夜の女王の舞台を見たい。」と思わず言いました。先生は「オペラを通して歌うことが体力的に難しくなったので舞台を離れた。」と仰っていました。この貴重なスターノという声楽家の持っている発声技術を自分のものにしようと、帰国してからも少なくとも、トータルで1年の三分の一はデュッセルドルフに通い、必死に一生懸命努めました。移動宿泊レッスン代と経費がかさみましたが、演奏出演料の全てをかけることが許さる環境が与えられていたことに、心から感謝しています。その体験は自らの演奏のためだけではなくて、その都度、若い人に伝えることのできる声楽指導現場が与えられ続けていたことにも感謝しています。
私は、これまでも今も、スターノ先生の真っ直ぐ矢のように飛んでいく透明感溢れる美声を思って自主練習しています。
スターノ先生はデュッセルドルフ歌劇場付きのボイスコーチで、個人レッスン場はデュッセルドルフ旧市街に在る教会地下の一室でした。私以外にも多くの声楽家がレッスンに来ていていつも定期レッスンのスケジュールは埋まっていましたが、私がレッスンに行くと、「遠い日本から来て滞在は1週間だから」と他の人に説明して時間を入れてくださっていました。申し訳ないと思っています。
《プリスロンプリ》の演奏会が終わり、舞台裏に若杉弘氏をたずねて来られた武満徹氏は、指揮者の若杉弘氏が「豊田さんを褒めてあげて」と言ったとたんに、そこに居た私にしっかりと握手してくださり、何故かとても喜びに満たされ…感動しました。その時の武満先生の目の光をたとえようもなく明るく感じました。この時力が抜けて、歌わせていただいて良かった、と思うことができたと思います。
演奏会が終了したことをスターノ先生に伝えました。この曲の譜読みは自習だけでは困難で協力をお願いして勉強できたことを伝えると「喜代美はとても幸せだ。その協力者に私も一緒に感謝を捧げる。」と仰いました。…感謝しています。
東京の自宅のテレビにスターノ先生が映っているのを見て仰天したことがあります。それはNHKニュースでした。ポーランドで国民が記念碑か何かに集まり大勢で歌っている映像でした。スターノ先生の故郷はポーランドです。その映像は一瞬でしたが、確かにスターノ先生の歌う姿だと思いました。その時、何かとても感動して、いつもにこやかなスターノ先生の心の深いところを思いました。
レッスン時のスターノ先生の歌声は美しい鐘のように響き渡り、レッスン場を満たしていました。ハイFも健在で、スターノ先生の身体の使い方を体験して、声楽の楽器は身体であることが私自身の身体に刷り込まれたと思います。
最近ビルギット・ニルソンの演奏映像を見る機会があり、身体の使い方に注目して見るとスターノ先生と同じく強靭な丹田の動きを確認することができました。71,2才の時のライブ演奏ですが、若い時の声質と遜色なく思いましたし、弱音も駆使していました。ボイスコーチのバッディは「この世を去る瞬間まで発声技術は向上する」と言いました。私は、声楽の楽器である身体は、無くならない(死なない)限り、ピアノやバイオリンのように在り続けるということかしら、と思っています。
スターノ先生の、あの強靭な丹田の動きの手触りこそ、私の発声の指針になっていると思います。
スターノ先生には、いつも心からの感謝を捧げています。