活動について

演奏 :声楽家への軌跡

写真:ケルン音大時のアントニア《ホフマン物語》 ケルン音大ホール

東京二期会オペラ公演《タンホーザー》のお小姓役が私のオペラデビューでオペラ研修生の23才でした。

25才までに、東京二期会と東京オペラプロデュース各公演の《フィガロの結婚》花娘Ⅰ、《不思議なお芝居》、《魔的》童子Ⅰの機会が与えられ、26才の時に、東京オペラプロデュース公演《ペレアスとメリザンド》メリザンドを歌うことになりました。

初めての主役は終演時までとても重い責任がずっとのしかかったままで、私は何度となく押しつぶされそうになりました。

経験に培われた役作りのノウハウは持っていませんでした。指揮者の若杉弘演出の佐藤信の許で、ただただ一生懸命に楽譜と役作りに努める、必死に指揮者と演出家の指導についていく状況でした。

日本語訳上演でしたので、毎稽古に訳者の先生が同席して、指揮者、演出家、歌手にも意見を聞いて、その場でどんどんと日本語を改訂していかれました。

上演スタッフの先生方、共演者とのチームワークで創り上げたオペラの舞台という、かけがいのない体験をさせていただきました。

メリザンドを歌った2か月後の1978年4月にドイツのケルン音楽・舞踏大学に留学しました。

その年にケルン音大がケルン歌劇場の協力を得てオペラ抜粋公演を開催しました。

私は、ホフマン物語のアントニアを歌い、その公演のための合宿に参加しました。

この合宿は演出のゲルノート(元女優)氏のミュンヘン自宅(スタジオ)でありました。

ケルンからミュンヘンまで、学生の自家用車とゲルノート先生の自家用車に分散して移動し、私はそれまでにもその後にも経験したことの無いスピードの恐怖を体験しました。時足200キロほどのスピードで走行する道路は線の様に細く見えました。

運転する演出助手(愛称はケッツヒェン/子猫)の舌打ちと、「また車線変更表示を出さない車だ!許されない!!!」の叫び声は忘れません。本当に恐ろしかったです。

ゲルノート先生はその時、風邪をひいていて、合宿数日後に私はうつってしまいました。高熱が出て皆と別部屋で寝ていました。居るはずのない蜂がいて、刺されそうになりました。

正に泣きっ面に蜂だと思ったとたん可笑しくなって笑いが止まらなくなりました。その時、夜中2時ごろ心配したゲルノート先生がお部屋に入ってきて何とも言えない表情をなさり、「大丈夫か?」と声をかけて直ぐに出ていかれました。

合宿では、ドイツの発音をそれこそ歌の合間に一日中徹底的にトレーニングされたのと、身体の力を突然に抜いて崩れ降れて気絶するという演技を繰り返し学ばされました。私が気絶する演技をすると、ゲルノート先生はその都度、褒めてくださいました。

10月の本番の日は、ケルン歌劇場の大道具小道具、衣装が用意されていました。歌劇場のプロフェッショナルがメイクをしてくださいました。

ボゼニウス先生はいつものように発声練習をしてくださり、いざ本番に向かう時、「多すぎる!」というボゼニウス先生の大きなため息まじりの声が後ろから聞こえました。

私の地毛に足されたかつらの毛の量が多すぎると思われたようでした。相手役は既に歌劇場で歌っている歌手なので、その安心感は大きかったです。

ドイツだけでなく各地からAgentur(マネジメント)が来ていていました。私は、デュッセルドルフのパーシュさんと話しました。Vorsingen(オーディション)の連絡を待つことになりました。11月にモーツァルトのレクイエムの演奏会のソロに出演しました。

その頃、東京二期会からケルビーノ、東京オペラプロデュースからロジーナのオファーをいただき、帰国を決めることになります。その頃の体験を記した文章を掲載させていただきます。

声楽家への軌跡

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