写真:貴志康一、ご両親、妹たちと弟(芦屋の”子供の家”の玄関前で)
「貴志康一生誕100年記念演奏会実行委員会」委員長を務められました熊倉功夫(当時、林原美術館館長)氏の言葉をご紹介させていただきます。
【貴志 康一の音楽を支えるもの - 父・弥右衛門の存在「生活の中に生きている茶道・禅・教養」熊倉 功夫】
本年、生誕100年を迎える作曲家・指揮者の貴志康一の名前を私が知ったのは、実は音楽ではなく、その父親の貴志弥右衛門との出会いからです。今となってはほとんど半世紀ちかく前のことになりますが、古本屋で、一冊の戦前の雑誌を手にとりました。『徳雲』というタイトルで、ずいぶんページ数もあり、しかもその半分くらいがぜいたくな建築の写真集。当時、わたしは近代の茶の湯の研究をしていましたから、その目次の中の「茶道の一考察、教養としての茶道 聴雪生(貴志弥右衛門)」という一文が目に留まりました。読んでみますと非常に哲学的な立派な論文です。驚きました。昭和4年(1929年)にこんなすばらしい雑誌があったとは。
貴志弥右衛門という方を調べてみますと、大阪の洋反物を扱う大店に生まれ、三高から東京帝国大学哲学科に進み、一時甲南女学校の先生もしましたが家業を継ぎ、妙心寺徳雲院を拠点として茶道と禅と教養を一体とした生活の実践につとめた方であることがわかりました。その成果の一つが雑誌の『徳雲』でした。
知られざる近代数奇者として弥右衛門のことを書いた拙文から山本あやさん(貴志康一の一才下の妹)とのご縁が生じました。さらに康一の音楽へと私の世界が広がっていきました。あやさんは、父上の弥右衛門、兄上の康一、二人の顕彰を生涯の大事としておられました。その情熱と、気品在る、まるで絹ずれのような美しいふるまいとお姿に圧倒されました。
あやさんから、大正・昭和時代の最も上等な日本人のエッセンスを教えられたように思います。
貴志康一の音楽を考えるのには父弥右衛門の存在が大きいでしょう。康一は当時、西欧の音楽の理解において他の追随を許さぬ天才でありますが、その発想の背景に、日本の伝統文化、東洋の仏教があるのは父の影響でしょう。弥右衛門が理想とした茶道、禅、教養は、単なる知識や習い事ではありません。生活の中に生きたものでなければならない、としています。その理想の生きた姿が、父弥右衛門が芦屋に建造し命名した『子供の家』だったのではないでしょうか。その芦屋に、今、父弥右衛門とあやさんと共に康一の音楽がよみがえるように思います。
2009年11月