活動について

作曲家 貴志康一 ①貴志作品の演奏について

※ ベルリンフィル公式ポートレート

作曲家・指揮者である貴志康一は、1909年に生まれ1936年に没しました。28年の生涯でした。数々の音楽作品が遺されており、その中にはドイツの人々を歓喜させたオーケストラ版日本歌曲も在り、その響きの中には貴志康一が何を伝えたかったのかが明確に表れていると感じます。

私は、東京都交響楽団定期演奏会「日本の作曲家シリーズ」第一回演奏会で、オーケストラ歌曲を4曲演奏しました。その時、初めて貴志康一を知りました。楽譜をいただいて譜読みをした時に感動してその夜眠れませんでした。

貴志康一自身が作詞したことばが素直にそのまま、踊るように、また慟哭するように、音符とピッタリ一つになっていました。それらの表現はオーケストラ演奏の響きによって高貴な品性を纏い、貴志康一の日本文化と日本人の情感への信頼が響きの柱になって立ち昇っていくように感じました。私にとって衝撃的な演奏会体験でした。後に、お妹様のあや様から、貴志康一が作詞した詩はほとんどが何気ない日常にあって実際に体感したことが詩になっていると教えていただきました。他に、古今和歌集から阿倍仲麻呂の「天の原」を選んだ貴志康一は、敬愛し信頼する日本文化を作品に取り入れて、心の拠り所…安心感を覚えたのではないかと私は感じました。

この演奏会以来、私は日本国内外問わず、多く演奏させていただいてきました。

在ドイツ日本大使館主催のリサイタルが当時の首都ボン(ラ・レドゥートゥにて)であった時にも、モーツァルト、J.S.バッハ、中田喜直、貴志康一の作品を歌いました。

貴志康一の作品は、時に、爆発的な感情表現になります。

ボンのリサイタルには多くの国会議員の方がいらしていましたが、演奏会後バイロイトの議員の方からホテルに電話があり、バイロイト歌劇場のオーディションを受けて欲しい、と連絡をいただきました。後日、日本からオーディションを受けにバイロイトに行き、タンホイザー(かローエングリン)の舞台が設営されている舞台上で歌いました。10名ほどが受けに来ていることを事前のピアノ合わせの時に知りました。私はモーツァルト作曲《後宮よりの逃走》からコンスタンツェのアリア”どんな拷問が待っていようと”を歌いました。歌い終わった時に、舞台の上手から大きな拍手があり、拍手した人に通りすがり「本当に?/wirklich?」と聞いたところ、その人は大きく頷きました。私とバリトンの人と2人が音楽監督室に案内され、そこにはWolfgang Wagner氏と秘書の女性が待っていました。Wagner氏は2人が合格したことを告げました。その時、指揮の飯守泰次郎氏が劇場で仕事をなさっていることを聞いていたので呼んでいただきました。立ち合っていただけたことを心強く思いました。「あなたの声質(ドラマチックコロラトゥラソプラノ)で今直ぐ出演の役だと 「花の乙女」になる。そうでなければ40才半ば過ぎに再度来なさい。マネジメントを紹介する。」と言われました。40才半ばはまもなくでした。Wagner氏からのマネジメントを紹介するというお申し出は大変に光栄で有難いことと思いましたが、それを受けるという事はどういうことになるのだろう、と思いめぐらせていて、答えに躊躇してしばらく黙っているとWagner氏は少し苛立ってしまいました。その頃、私は少なくとも2年先まで演奏会の予定を頂いていました。その時の渡独も演奏の勉強のためにボイスコーチのスターノ先生のレッスンを受けに来ていました。東京で決まっている演奏会をキャンセルすることなど全く考えられませんでした。そこで、「ありがとうございました。このオーディションに合格したという署名をください。記念にします。」と言って退室し、スターノ先生の待つデュッセルドルフに列車で向かいました。

貴志康一は当時のドイツで日々刻々と様々な事象があったことでしょう。スイスとドイツ滞在数年の間に、複数のオーケストラ歌曲、また交響曲《仏陀》他のオーケストラ作品を遺していることは、凄い!としか思えません。それだけでなく、ベルリンフィルをはじめドイツのオーケストラと自らの指揮で自作品を演奏し、特に日本歌曲作品と演奏で高い評価を得ていることは、正に超人的と感じます。貴志康一のオーケストラ作品、特に日本語の日本歌曲作品には日本の文化・日本人の情感への深い敬愛と信頼が込められていると思います。その響きは必ずや人種、国籍、宗教などの差異を超えて心をつなぐ、と私は確信しています。

米国の在日本大使館主催のリサイタルの時にもオペラアリア「今の歌声は」を入れて、ドイツの時と同じような貴志康一作品をはじめ日本歌曲、J.S.バッハによるプログラムを歌い、演奏会後に日本歌曲について取材を受けました。私は「今日演奏した日本歌曲は西洋クラシック音楽作曲技法によるもので、作曲家で指揮者の貴志康一は”日本人の情感を西洋の人の心に寄せる”ことを願っていた」と話しました。この時も、もっと英語をしっかり勉強しておけば良かったと深く反省しました。

貴志康一さんの一才年下のお妹様は、山本あやさんです。東京文化会館での都響の演奏会の時に初めてお目にかかって、無二の親友となりました。あやさんは、私のことを、「年下の親友」と仰っていました。

あや様は、芦屋の「子供の家」、京都の妙心寺など、ゆかりの所を何度もご案内くださり、エピソードをたくさんお話しくださいました。そして1993年に私がカトリックの洗礼を受ける時の代母さまになってくださり祝福くださいました。貴志康一さんとご家族様の沢山のお写真をくださいました。貴志康一記念室にも保存されていると思います。

甲南学園の「貴志康一記念室」には、貴志康一の全作品が管理されており、資料が収集されています。記念室の扉を開けると、大きな大きな貴志さんの写真が目に飛び込んできます。つい、お辞儀して「こんにちは」と言ってしまいそうな、生命力あふれる貴志さんに会えます。ご興味がございましたら、芦屋の甲南学園の中にある「貴志康一記念室」をお訪ねくださいませ。

私は、本年、ピアノ伴奏の貴志康一作品(赤いかんざし、かもめ、かごかき、天の原、行脚僧)と木下牧子作品(モノオペラ:暁の星、夏目漱石「夢十夜」より)によるCDを制作することになりました。

演奏家、特に声楽家の多くが演奏準備の最初に行うのは歌詞に注目することだと思います。作曲家が選んだ歌詞には作曲家が感受して表現し伝えたいことを見つけられる可能性があるからです。声楽家は歌詞を歌う楽器として存在していると私は考えていますので、歌詞を自分のものにすることことに努めたいと思っています。具体的には朗読です。歌って朗読して、また歌って朗読して、というのは、時間がかかりますが、詩の言葉とその情景が確実に自分の中に芽生えてきます。貴志康一の歌曲は、ほとんどが自作の詩であることから、曲を演奏すると、貴志康一の感性と性格を感じるように思います。

楽譜の楽曲分析も勿論必要ですが、何故、この音なのか?何故、このように記譜したのか?ということは作曲家自身の創造性に入り込まないとつかむことはできません。作曲家の人としての心情、その時の環境などの知識が必要です。それらの確信について、楽曲分析が助けてくれると思っております。

録音に向け、研鑽の日々を過ごしております。当日は、良好な体調で歌う楽器として調整して、のびのびと、ただひたすらに作品を演奏したいと思います。貴志康一さんはじめ、お妹のあや様、ご両親様、ご家族様がたに喜んでいただける演奏になるよう努めます。

PAGE TOP