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国際的テノール歌手・山路芳久氏との共演の思い出

写真:故・山路芳久氏(テノール,1950 – 1988)と二期会オペラ公演《愛の妙薬》ネモリーノとアディーナ、の打ち上げ会場にて

山路芳久(Yoshihisa Yamaji) 略歴:東京藝術大学大学院修了。1977年イタリア政府給費留学生(ローマサンタ・チェチーリア国立アカデミア入学)1978年ミラノスカラ座研究所に入所。1979年スカラ座のオーディションに日本人男性として初めて合格。マニヨーニ、ファヴァレット、ブラスキに師事。1979年ウィーン国立歌劇場で初めての日本人テノール専属歌手となり、ヴェルディ《椿姫》アルフレード、ドニゼッティ《愛の妙薬》ネモリーノ、ロッシーニ《セヴィリアの理髪師》アルマヴィーヴァ伯爵などで活躍し、1982年にミュンヘン国立歌劇場と専属契約し、W.サヴァリッシュ、C.クライバー他の指揮のもと世界的な歌手として活躍した。日本においても、主に二期会オペラ公演、リサイタルなどで演奏した。世界的声楽家として将来を期待される中、38歳の急逝であった。

[コンクール受賞歴]1976年 第7回イタリア声楽コンソルソ・テノール特賞1976年 第12回日伊声楽コンソルソ第1位1976年 第45回日本音楽コンクール声楽の部第3位1976年度 海外派遣コンクール特賞1978年 レッジョ・エミリア国際音楽コンクール第1位1978年 ベミアミーノ・ジーリ国際コンクール第2位1978年 エンナ国際音楽コンクール第1位1978年 マリオ・デル・モナコ国際音楽コンクール第1位1978年 ヴィオッティ国際音楽コンクール第1位1979年 ヴェルディ国際声楽コンクール第2位1984年 ヴェルディ国際声楽コンクール第2位1985年度 第13回ジロー・オペラ賞大賞

[山路芳久氏と共演して:豊田喜代美]山路芳久氏とのオペラ共演は二期会オペラ公演「愛の妙薬」でした。

最初の音楽稽古の重唱の時には、ビロードのように艶やかな光沢と品格のある山路氏の歌声の音響に私の歌声が包まれた途端に大きな安心感に満たされたのを覚えています。深々として力強く、ベクトルが限りなく上方に伸びている歌声でした。

今になって考えてみると、その歌声は正に、山路芳久氏の人となり、人格そのものを表していたのだ、と思えます。

本番後の打ち上げ会場で、「豊田さんの声は透明感がありとてつもなく良く通る。がんばってね。」とのお言葉をいただきました。世界で大活躍しているご自分の心身を良好に保ち、結果を生み出すことに努めている中でも、他の日本人歌手が世界で活躍することについて、いつも考えていらして、アドバイスと励ましを与えていらっしゃることも、この機会に知ることができました。

現在は発行されていませんが、かつて、事件をフォーカスして掲載する「フォーカス」という雑誌があり、その記事の中で山路氏と演奏する写真が掲載されたことがあります。

フォーカスに掲載された理由は、途中から通常の演奏会では無くなったからです。

小林研一郎指揮のオーケストラと4人のソリストによる演奏会でしたが、演奏が始まってまもなく、テノール歌手が喉の調子を崩して突然歌うのを止めてしまい、小林研一郎氏がオーケストラを止めて、客席に向かって「山路芳久さん、いらっしゃいますね。申し訳ありませんが、どうぞ舞台に上がって来て演奏していただけませんか。」と呼び掛けて、山路氏が客席から直接舞台上に這い上がっての演奏会になりました。

その這い上がっている時の写真と、山路氏は普通の服装のお姿でソリストとして演奏しているところが映っています。

山路氏の演奏は素晴らしく、オペラ歌唱に優れている声楽家は他の分野でも優れていることを実感した、私にとって忘れられない山路氏との宗教曲共演となりました。

人としての日常生活の中で、身体が楽器である声楽家の山路氏が、その楽器を育成しながら良い状態をキープして、最良の演奏を実現するのに、どうしていらっしゃるかを知りたかったと思います。

演奏家として様々に成長の機会はありますが、公式の共演の場では、私自身、それまでの自分ではない自分を発見できてきたので、山路氏との共演の感覚を思い返して成長したいと思っています。

歌声は、その人そのものを表しているという素晴らしいモデルとして、山路芳久氏は私の中に大切に在り続けると思っております。

心からの感謝を捧げ、ご冥福をお祈り申し上げます。  合掌。

 

 

 

 

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